大江戸OFF顛末記

 

時は、平成十五年、三月二十九日、夜八時三十分。
遠く奥州伊達の地から、我は江戸を目指すべく馬を用意した。
駿馬ともいえない、仔馬に跨り、亘理の浜、相馬、原町、磐城を
一目散に駆けぬけ、勿来の関所を越え水戸に達す。時は丑三
ここで一先ず、飯を求めに七十一屋に立ちよりて、蕎麦をすする(w
しばし一服の後、再び馬を走らせ、石岡、松戸を越え
城下、葛飾柴又へ入る。もう夜明けだ。
そして、両国到着は七時。周囲の偵察も兼ねて桜舞散る隅田川沿いを疾駆す。
約束の刻までわずか。馬を預けて朗尊にて飯を求める(w

ひとまず一服の後、徒歩にて江戸東京博物館http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/index.htmへ。
ここで、若干の便意を催す。しばし厠で脱糞の後(w
待ち合わせの場所へ、とりあえず三階の自動昇降階段前広場において
切符売り場の脇にて「大江戸オフ」と紙に文字を認め志士達の到着を待つ。
今回集まる同志達は、前回の靖国の集いの時に面識のある、れんみ同士
総裁同士を除き、電脳掲示板で言を交わしただけの面々である。
期待に胸を躍らせながら携帯を注意しつつ周囲に目配せをする。
人が見当たらないので、一階の出入り口に赴くとちょん髷の貴公子が一名
すかさず相手が近寄る。「キハで御座る」不肖も「浪人です」と答える。
キハ氏を伴い、三階の広場へ。次々に長身痩身の「すべて」氏
眼鏡小身ながらもただならぬ威光を発する「総裁」氏
黒眼鏡の不屈の革命家「ヨッシー」氏が現れる。ただ「れんみ」氏と「415」氏の到着が未だだ。
我は、「れんみ」氏に携帯で連絡を試みると「風邪」にて欠席との返答。
残念だが、再度の再会を期し、415氏に電子掲示板で返答を試みる。
仕事で間に合わぬとの本人の返事ありにして我らはいざ館内へ。

館内は、江戸城下の熱気がむんむんで当時の生活の息吹が我々を包み込む
屋敷の模型、上水道の図面などに感銘し家康公の像を眺めその遺徳を忍んだ。
ひと巡り常設展示室を観覧した後、2階のレストラン「モア」で食事す。
私は、キーマカレーとクリームソーダを女中に所望しひとまず席に就く。
各々、窓下に咲き誇る桜を眺めながら、この党の行方に議論を闘わす。
義経公を思わせるほどの貴公子「キハ」氏が「靖国」を見たいとの希望あり。
食事後、企画展示室を拝館後に向かおうとの集論で一致す。
一階の企画展示室は、戦前ロマンの宝庫で様々なポスターや人力車などが
展示され我々の興味を誘うに十分なものであった。
東京空襲時に米軍の航空機からまかれた宣伝ビラなども見て

両国を後にし、英霊がまします靖国へと総武線に乗り込み志士達は向かった。

三島由紀夫烈士自害の地、市ヶ谷に降りたち、我らは徒歩にて靖国へ

http://www.yasukuni.or.jp


この五人の志士達の意気極めて堅剛、将に天を突くものがあり、咲き乱れる憂国の
桜花は、我らの頭上に降り注ぎその壮烈な先途を祝福しているかのようだ。
十分ほどで靖国へ到達、遊就館へ歩を進める志士達の行方を遮るものなど何もなし。
館内に入り零式戦闘機52型の勇姿に惚れ惚れしつつ展示場へ、扉を潜りぬけると

「身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし大和魂」の碑が立ちはだかる

たちまちに、吉田松陰烈士の憂国の至情が我らの心を揺り動かした。

展示物の研ぎ澄まされた「村正」などの銘刀の数々に日本の勇と美の真髄を見る。
武士道とは、まさに総合芸術。日本が世界に誇るべき素晴らしい伝統だ。

源義経、楠正成、武田信玄、織田信長公などの偉大な武士達の魂を忍びつつ我らは
幕末の歴史に歩を進めた。
まさに動乱の時代。多くの志士達が尊皇攘夷のために起ちあがり散っていった
激動かつ壮烈な物語は今でも多くの憂国の志士達の心を捉えて離さない。
浦賀沖に四隻の黒船が来航し、時の幕府は右往左往。
田舎の下賎の侍衆は、そのふがいなさに憤怒し剣をとり幕府の強大な体制に対して
不屈の闘志と鉄壁の意思で自らが決起したのである。

この、激動の時代に我が国は幾多の英雄を輩出した。
高杉晋作、坂本龍馬、久坂玄瑞、西郷隆盛、勝海舟。。。
まさに天の配剤である。神国であるわが日本は危機の時代になると
必ず勇士達が、この地に現れ国難を救うこの有難さは他国には
ありえないものだ。あらためてこの国の偉大さを痛感する次第だ。
この英雄達により、明治維新は成し遂げられ「富国強兵」「文明開化」の名のもとに
国力を貯え、強化し植民地収奪主義の列強に立ち向かっていく基礎が作り上げられたのである。

我が国は、フランス、ドイツから陸軍の戦術を
イギリスから海軍の戦術を必死にとりいれ、工業を興し
商業を発達させ国力を次第に横溢させていった。
しかし、北にはロシア、西には清国の地政学的圧迫に常に晒され
常にその圧力の排除に頭を悩まされていた。
そして朝鮮半島での東学党の乱などを引き金に半島に介入。清国と戦端を開き
その軍を打ち破り、遂に半島に橋頭堡を確保せしめたのである。
この快挙に対して列強は早速干渉し、我らは天皇陛下以下「臥薪嘗胆」を胸に
この態勢の挽回を誓ったのである。

そして、ついに我が国は、日露戦争に突入

http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/06history/06history_04.html

http://ww1.m78.com/topix-2/paleologue%20diary.html

http://home.catv.ne.jp/dd/nk0515id/pgs/stories/kakke.htm

http://www9.ocn.ne.jp/~smatsu/J/2miraikousou/report/0.htm

 

辛くも我が国は、勝利を収めたのであるが、あるエピソードを紹介しよう。

伊藤博文

「戦争を決意したが勝つ見込みはまったくない。
しかし私はもしロシア軍が九州に上陸してきたら、兵にまじって銃をとり戦う。兵は死に絶え艦はすべて沈むかもしれぬが、私は生命のある限り最後まで戦う。
この戦は勝利を期待することは無理だが、国家のため全員が生命を賭して最後まで戦う決意があれば国を救う道が開けるかもしれないのだ。
是非渡米し、私と共に生命を国家に捧げてもらいたい」。伊藤の涙ながらの訴えに金子は沈黙し、「渡米します」と答えたのである

当時の政治指導者達は、最後は自らも戦闘員となって戦う覚悟があったのである。

そして、この欧米列強からの圧迫のピークが大東亜戦争である
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_1.htm
世界不況の下、アメリカは中国市場の獲得に躍起になっており
その地域に強大な影響力を持つ日本をことあるごとに追い込み、挑発した。
日本も国防上、経済安全保障上やすやすと米国の要求を飲む事が出来ない。
そしてとうとう真珠湾攻撃を契機に両国は衝突し、最終的に二発の原子爆弾を投下され
日本は、ポツダム宣言を受託する事に相成ったのである。

見渡す限り焼け野原の日本に多くの兵隊達が帰ってきた。
彼等は、闇市などで逞しく生き抜き決して希望を失わなかった。
やがてソ連、中共の思惑のもと日本軍が撤退した朝鮮半島に戦争が勃発
米軍が慌てて参戦。その状況のもと日本に多くの軍需品の注文が発注され
経済は、急速に息を吹き返していく。
戦前からの技術者であった、松下幸之助氏、本田宗一郎氏、盛田昭夫氏などが
新たな製品、市場を次々に創出させ、東京五輪、ベトナム戦争の特需なども
それに便乗し遂に世界第二位の経済超大国にまで、ほんの数十年で我が国は
見事復活したのである。

80年代の日本は、その国力にモノをいわせ世界中の資産を買いあさり
市場を席巻しアメリカは日本製品で溢れた。
そして、アメリカは日本との貿易摩擦で苦悩し次々に難題を日本につきつけてきた。
しかし、日本国内の過剰な投機経済の飽和によりバブルが崩壊。
我が国は、莫大な不良債権とともに21世紀の今に至るまで
その負の遺産に苦しんでいる。6%を越える失業率。
製造業の空洞化、企業の倒産、リストラがあい続き犯罪は急激に増加し
刑務所は今やパンク状態。街の商店街は軒並みシャッターを閉め
公園や地下道には、ホームレスが溢れている。

国や地方自治体が抱える千兆ともいわれる莫大な財政赤字と重税のもと
我らの生活は、大変な将来不安に脅かされているのです。

 

そうした、過去から現在に至る苦闘の日本史に思いを寄せながら展示物の観覧は

進んでいく。

遊就館には、乃木大将が着用された軍服、真珠湾攻撃において
零戦制空隊の一員として被弾しながらも敵飛行場に突入し
米兵さえも感動させた飯田房太帝国海軍大尉、大和の猪口艦長の軍服
硫黄島の西中佐や栗林中将閣下の遺品など、壮烈な展示物の数々が我々の目を奪う。

いずれも我々子孫のために、戦場で敢闘された勇士達の足跡である。
われらには、小泉首相、福田官房長官、山崎拓自民党幹事長などが提唱する
国立の慰霊施設の建設などは到底受け入れられないものだ

そのようにして一連の展示物の見学を終え、しばし売店で買い物。
売店には、旧陸海軍の制帽が売ってあり5800円?かな
キハ氏が、帝国海軍士官の戦闘帽を被る。「似合う」
彼のような美男子には似合って当然やもしれんが(w
売店には、戦車や軍艦、戦闘機のプラモや旗、書籍などが
所狭しと置かれ、私は「すべて」氏に「大空のサムライ」を進める。
皆、おもいおもいに買い物し
外へ出て、販売機前で一服の後、参拝。
時間の都合により、昇殿参拝は次回に延期という事にし
花見会場を探すべく、大村益次郎の銅像方向に歩を進めたのである。

そして何やら賑やかな笑い声と焼き鳥の匂い、、、、そう「花見」だ。
咲き乱れる桜花のもとに、大勢の人々が宴に興じている。
我々は、迷わず決めた「ここだ」。
それぞれが飲み物やつまみを屋台で買い求め、席に座る。
多少冷えた体もビールと議論で次第に温まってくるものだ。
話は、党のあり方から、今後の活動、政策議論にまでおよび、
夜はふけていく、、、、キハ氏の大局を見据えたツボを押さえた意見に興奮し
すべて氏の熱血かつ思慮に溢れた意見にいちいち頷き、
総裁のAVモザイク消去論にまで及ぶ壮大な政策論に心惑わされ(w
辻元清美落選運動でも知られる闘士、ヨッシー氏のその片時も本を手放さない
勤勉努力に裏打ちされた説得力に心打たれる。
まさに素晴らしい帝都の夜である。
そして、満足ののち時間が到来し私が殴り書きした議事録をキハ氏が神社前ファミマコピーし
互いが今後の健闘を誓い合い、この党の未来を祝しつつ
それぞれが霜露降る帝都市ヶ谷を後にし家路に着いたのである。

 

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